メジャーリーグでも活躍した巨人の上原浩治投手の引退会見が、2019年5月20日に東京・千代田区のホテルニューオータニで行われました。
こちらではその引退表明会見の全文を掲載します。
目次
- 引退会見全文
- 今の胸の内は
- 心の中の変化は
- 決断のきっかけは
- 経験もあり、体は手術もした。ズレは
- これまで後ろ向きになったことは
- 5月にイースタン・リーグ、ロッテ戦で同学年の福浦と対戦。きっかけの1つに?
- プロ生活はどんな道のりだった
- 頑張りは支えてきた病気の子供たち、あるいは苦境に立たされている方々へのメッセージだった
- 100勝、100セーブ、100ホールドを達成。自身にとって記録とは
- 次の人生は
- チームに対して
- 以前、野球人生の満足度をグラフに表した際は引退時をMAXとしていた
- なぜ今がMAXなのか
- 激しいハイタッチが印象的
- 一番うれしかったシーン、苦しかったシーン
- ビールは1日2缶までと節制してきたが、今後は
- 原動力は
- 背番号「19」で引退
- 支えになった言葉
- 子供たちに今伝えられるメッセージ
- 2006年WBCの準決勝・韓国戦で、バッテリーを組んだ里崎氏が「野球人生で一番すごい球を投げていた」と話していた
- レッドソックスのジョン・ファレル監督の印象的な言葉は
- 配置転換を受け入れることができたのは
- プロ野球の監督に興味はないが、学生野球の監督はしてみたいと話していた
- 速いテンポや間合いはどのようにして可能になったのか
- 後輩に託したいこと
- 近くで支えていた家族の存在
- 家族にいつ伝えた
- 巨人で終えるということ
- 同学年のライバルたちにはどう報告を
引退会見全文
「本日をもちまして、21年間の現役生活を終えたいなと思います。えー(涙で言葉に詰まる)これまで自分に関わってくれた方々、みんなに感謝したいと思います。ありがとうございました」
今の胸の内は
「もうちょっとやりたかったな、という思いです」
心の中の変化は
「自分が決めた以上、ユニホームを着ることはないわけですから、今は気持ちを切り替えていかないといけないかなと思っています」
決断のきっかけは
「もう今年で辞めることは最初から決めていたことなので。3カ月が僕の中では勝負と決めていたので、2月、3月、4月と練習していく中で、(開幕後は)一度も1軍に上がることなく、2軍で試合を投げさせていただいていた中で、抑えていないという葛藤もありましたし、8月、9月になると、チームは首位争いという状況になってくる中で、自分がこういう会見をするのは違うと思ったので、もうそれだったら早く終わろうと思った」
経験もあり、体は手術もした。ズレは
「手術させていただいて、体自体は投げられる状態ですけど、その状態の中で、2軍戦で通用していなかったというのが、気持ち的に後ろ向きになったのかなと。そう思っています」
これまで後ろ向きになったことは
「それは何回かありましたけど、来年があるんであればもうちょっと頑張ろうと、今年1年やろうという気持ちになりましたけど、来年はもうないというのははじめから決めていましたから、やっぱり気持ちと体と、なかなか一致しなかったということですね」
5月にイースタン・リーグ、ロッテ戦で同学年の福浦と対戦。きっかけの1つに?
「そうですね、福浦と対戦できたのは僕の中ですごくうれしかったことですし、西武戦で(同学年の松井)稼頭央監督の目の前で投げられたのは僕の中でいい思い出といったらおかしいですけど、これでいいのかなという気持ちに少しなりましたね」
プロ生活はどんな道のりだった
「けがばっかりの、中途半端だったかなと思いますね」
頑張りは支えてきた病気の子供たち、あるいは苦境に立たされている方々へのメッセージだった
「手を抜いて投げたことはないですし、今年に限っても若い選手と一緒に練習しましたし、手を抜いて練習していたというのは自分の中では一切なかった。そういう姿を見て励みになってくれているんだったらうれしいですね」
100勝、100セーブ、100ホールドを達成。自身にとって記録とは
「それに関していえば中途半端かな、と。どのポジションでまっとうしたわけでもなく、中途半端に先発、中継ぎ、抑えとやっちゃったかな、という感じですね」
次の人生は
「正直まだ何も考えてないです。明日からどうしようかなというぐらいですね」
チームに対して
「いま首位争いをしている中でこんなことになってしまい、本当に申し訳ないなと思います。チームはいい感じできていると思うので、このままみんな頑張っていってほしいなと思います」
以前、野球人生の満足度をグラフに表した際は引退時をMAXとしていた
「悔しいですけど、自分が決めたことなので。今がMAXですね」
なぜ今がMAXなのか
「21年間も野球生活ができたということですね。それが感謝というか、本当に自分と一緒にやってくれた選手、コーチ、監督、まわりに感謝しながらの21年間だったので。本当に野球にも感謝していますし、満足だけです」
激しいハイタッチが印象的
「あれは、ジャイアンツに来てからは沢村をどついているだけだったんで。それができなくなるのはさびしいですけどね」
『闘志力。 人間「上原浩治」から何を学ぶのか(楽天ブックス)』
一番うれしかったシーン、苦しかったシーン
「うれしかったのはやっぱり優勝したときですから、日本でやっていたときは2002年のシーズンがうれしかったですし、アメリカでいえば2013年がすごくうれしかったですし。苦しかったのはアメリカに渡って1年目で肘をけがして、本当に野球ができなくなると思ったことですね。あの1年というか、そのけがをしたときが苦しかったですね」
ビールは1日2缶までと節制してきたが、今後は
「どうなんですかね、ビールを3本、4本飲んでも大丈夫という気持ちになると思いますし、朝起きたときに、肘が、肩が、ハム(ストリング)が、腰が、とか、もうそういうことを気にしなくていいんだなという感じになると思いますね」
原動力は
「負けたくないという気持ち、反骨心ですね。もうそれだけです。現役中はね。明日からどうなるか分からないですけど」
背番号「19」で引退
「去年終わってから、原さんがもう一回頑張ろうと言ってくれて、契約していただいて、(菅野)智之が背番号を18番に変えて、19番を空けてくれた気持ちというのは、感謝しています」
支えになった言葉
「直接言われたというわけではないですけど、野村監督の書籍の中から本を読んでいく中で、いっぱいいい言葉がありましたからそれを思い出しながら、とか、桑田さん工藤さんという素晴らしい先輩方からの言葉もたくさんいただきましたし、村田さんからも我慢という言葉もいただきましたし、色んな方からいい言葉をいただいたなと思っています」
子供たちに今伝えられるメッセージ
「野球を好きになってほしいな、と。それだけですね」
2006年WBCの準決勝・韓国戦で、バッテリーを組んだ里崎氏が「野球人生で一番すごい球を投げていた」と話していた
「今のサトの言葉にうれしい気持ちと、あのときは本当にみんなが帰る準備をしていたので、自分らの力ではもうトーナメントで上に行けないという状況の中で、アメリカが負けて日本にチャンスがきたという中で、予選も韓国に一回も勝ってなかったですけども、あの試合でまたみんなが気持ちを切り替えて、本当に一丸となって勝てた試合だったので。僕も人生の中でベスト3になるようなピッチングだったと思いますね」
レッドソックスのジョン・ファレル監督の印象的な言葉は
「言われたことと言うより、会見の中で『コージには第六感がある』と言ってくれたので、『何を言っているんだろう?』と、それを今でも覚えていますね」
配置転換を受け入れることができたのは
「中継ぎになった時に、当時の監督から『先発で使わない』ということははっきり言われたので。アメリカに行ったのはメジャーで投げたいという気持ちだけだったので、トリプルAで投げたいというのは一切なかったですから、素直に中継ぎでメジャーに残れるんだったらという気持ちで、受け入れることは簡単でしたね」
プロ野球の監督に興味はないが、学生野球の監督はしてみたいと話していた
「プロ野球選手に対しては、全員がプロなので、正直教えることはあまりないと思いますし、だったらアマチュアで、自分が教えた選手たちがプロに入っていくという、そういう子たちを育てていきたいという気持ちは今でもありますね。今でも強く思う? そこまで強くないですけど笑」
速いテンポや間合いはどのようにして可能になったのか
「よくそれは言われますけど、自分の中でテンポを速くしようとか、そういう意識は一切したことないので。もしかしたら高校時代、大学時代にずっとバッティングピッチャーをやっていたので、そのリズムのまま試合でも投げていたんじゃないかと思いますね」
後輩に託したいこと
「今年はずっと2軍選手とキャンプからやってきた。若い選手が多かったですから、若い選手には1日でも早く1軍に上がれるように頑張ってほしいなと、そう思います」
近くで支えていた家族の存在
「一番近いようで、一番遠かったですね。アメリカと日本だったので。本当に迷惑かけたなと思います。9年間単身になってしまいましたから、子育ても一切していないですし。嫁には感謝しています」
家族にいつ伝えた
「いつとは覚えていないが、結構前から、そろそろかなという話は言っていました。1週間前くらいですかね。お疲れさまでしたと言われましたよ、奥さんから。子供は半分アメリカ人入っているような感じで、Congratulations! と言われましたから」
巨人で終えるということ
「巨人に戻ってくるということは正直考えていなかったので、そういう状況で自分を取ってくれた(当時GMの)鹿取さん、由伸には感謝していますし、こういう場を設けてくれた球団には感謝しています」
同学年のライバルたちにはどう報告を
「新聞に出る前に電話とLINEで伝えていましたし、(高橋)由伸は『おつかれさん』、(松井)稼頭央は『最後までやれ』って言ってくれましたけど、僕の中では決めたことだったので、そう返したら『おつかれさん』と言ってくれました」
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